2006/10/09

MT法を他手法から相対化する試み

 以前関西の研究会で(MT法との比較で)従来法のパターン認識の勉強にと、石井健一郎「わかりやすいパターン認識」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4274131491/ref=sr_11_1/250-8920752-7542600?ie=UTF8
が紹介された(このときの講師はMHIのKさんという方だがなかなかのナイスガイ、いやイケメンなのだ)。
入門書といいつつ下名のようなこの筋の門外漢には、数式をきっちり追って内容を読み込むのは一目して無理と感じたので(半分くらいは理解したつもりであるが)、この筆者が言わんとするココロのみをザッと理解することを試みた。

以下部分的に本書を引用してMT法との比較を行いながら、論点を整理していこう。(『  』が本書からの引用)

『特徴量を増やせばそれだけ情報量が増え、識別率も上昇すると期待するが、これは必ずしも得策ではない』(p.99)
この理由として本書では、以下の3点を挙げている。
 (1)相関の高い特徴の組が混入しやすくなる。
 (2)計算量が膨大になる。
 (3)過学習による未知データの認識率の低下を招く(ヒューズ現象)。
したがって、パターン認識においては次元削減が重要な課題であり、その方法としてKL展開(主成分分析に近い?)などの主要が有用であるというのである。

 最新の研究論文も読まず、入門書の表記だけを見て言うのはフェアではないかもしれないが、以上のようなことは、MT法の学習者ならすぐさま、以下のような回答を用意して「MT法では解決済みの問題である」と言えるであろう。すなわち、
 (1)' 共線性問題であり、すでに相関行列が正則でない場合のMTA法、TS法、T法という方法が提案されている。
 (2)' 行列を用いるから計算が望大になるのであり、直行展開によるTS法や、それすら行わない主効果(パターンからの差)によるT法が提案されている。
 (3)' ヒューズ現象は評価式を当てはめによって作成しているために起こる現象であり、重回帰分析や決定木などで項目数が過去のデータ数と同じになると完全に過去の現象が項目の関数で説明できてしまう(ロト6の1等当選番号の100%的中回帰式も作れる。もちろん将来のデータを予測できる保証はなにもない)。MT法の場合は「基準空間」という概念の導入で当てはめではない、基準空間パターンへの適合度合いを評価している。
 また、次元削減については、直交表による項目選択と、SN比という尺度で予測精度を評価することで明確かつシンプルにその方法論が示されている。

 もう1つ引用する。
『ベイズの誤り確率の推定は統計的パターン認識における未解決かつ重要な問題の1つ』(p.95) 
 つまり、ベイズ統計を用いる限りにおいては、分布の重なり部分に関するある種の推定誤差というものが必然的に発生するので、正確な真値(ここではクラス分け)の推定ができないというのである。分布が不明であり、またクラス分けが微妙な分布の裾野の領域にはもともとサンプルが少ないのだから、まあアタリマエといえばそのとおりである。
 しかし、タグチの場合は問題の立て方そのものが違ったと言える(「正しく問題を立てた時点で、その問題はほとんど解決している」という先人の言葉もある)。
 MT法では(またタグチのパラメータ設計でも)、真値や分布が不明の状態で、SN比という新しいものさしを導入して、認識システムの確からしさを評価している。つまり、「真値を正確に求めよう」という従来のアプローチと根本が異なるのである。
 MT法の計算に用いられている(TS法以降はそれすら用いられていないが)マハラノビス距離の背後にはその導出の過程で正規分布が仮定されているが、その分布を利用しようというのではない。
 実際の対象では分布は不明である(正規分布はありえない)ので、設計した認識システムにどれくらいの確度があるかSN比で評価・改善していこうという現実的な提案をしているのである。これはパラメータ設計における直交表の内側因子の直交性の評価(下流再現性、主効果によるロバスト設計)と同じアプローチである。
(MT法の単位空間の導入の話までは広げすぎなので機を見て次回に譲る)

 MT法はタグチのパラメータ設計と同様、目的(空間・機能)からのずれや不確かさを真値が不明でも評価できるようにしたものである。実際に我々が扱う系はいつも因子間に相関や交互作用があり、またその分布はほとんど不明である。ここに分布を仮定したり、実際のデータへの当てはめを行うのではなく、複雑怪奇な現実のデータにSN比というモノサシを導入して均一なパターンからのずれや、パラメータ設計であれば因子の直交性・加法性・・・の程度を評価しているのである。
 つまり、MT法(もちろんタグチのパラメータ設計も)は、判別分析(パラメータ設計に対してはフィッシャーの実験計画法)のような現象の記述のための数理統計ではなく、設計(Sysnthesis)のための手法である。
 本書で記載されているいろんな統計的パターン認識手法と比較して、MT法の特徴的な部分はこのあたりに出ていると言えるだろう。このことを品質工学では、技術的アプローチと科学的アプローチの違いといっている。

 本書には他にも「醜いアヒルの子の定理」の話(p.100)から技術的に特徴の重要性を判断することの重要性に話が展開されており、これはタグチが項目に固有技術的判断や特徴を入れるべきでないとしていることとの相違性を考えることができるし、「毒りんごにあたらない方法」(p.164)では、誤り率と毒死率の話から、タグチの損失関数を連想することも可能である。

 このような本は、MT法と他の手法とを比較することで、MT法の考え方や独自性を再認識するの好適であろう。従来法とMT法の比較はアプローチは目的の違いであり優劣ではない。従来法も知らず、ただMT法を唱えるのは危険である。考えなくなった時点でその人にとってタグチはブランドか宗教になってしまう。

株式会社ジェダイト(JADEITE:JApan Data Engineering InstituTE)

2006/09/24

名前のない豚

最初に1つの簡単な心理問題に答えていただこう。
あなたは2匹の豚を飼っている。2匹とも3ヶ月前から飼い始た豚で色や大きさなどはほとんど同じだ。
ただ、1匹の豚には飼い始めてすぐに「ブーちゃん」と名前をつけたのであるが、もう1匹にはまだ名前がついていない。ある日、都合で食用にどちらか1匹を殺さなくてはならなくなった。あなたなら、名前をつけた豚と、つけなかった豚のどちらを選ぶだろうか。
あるアンケートでは、ほとんどの人が「名前をつけなかった豚」を選んだそうである。これは何を表しているだろうか。
このことは、親しみを感じないもの、いやもっと中立的には知らないものや見えないものに対しては悪意がなくとも結果的に冷酷であるということである。このことは、たとえば「世界の見る目が変わる50の事実」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794214049/sr=8-1/qid=1159109456/ref=sr_1_1/250-8920752-7542600?ie=UTF8&s=gateway
などを読めば、我々がいかに恵まれた生活を享受でき、また恐ろしく悲惨な生活を強いられている人々がいるという事実を、いかに我々が知らずに安穏と生きているか、ということからも容易に反省できよう。
私を含めた凡人がこのことをどうこうしようという話ではない。
このような話は、設計開発の現場にいる人間と、量産の現場である製造、さらにはお客さんの使用環境である市場、不良が起こったあとのアフターサービスや品質保証、・・・ひいては地球環境などとの関係と同じなのではないかと思う。設計開発の現場にいる人間も毎日残業を重ね自分に与えられた課題をこなし、自分の責務を果たすのに精一杯である。それでいて、なかなか製造に対する許容差の問題や、お客さんが本当に欲しいと思う機能性については残念ながら見切れていない部分があるのは事実である。「あとは製造や品証に任せればよい・・・」と。もっと言えば、知っていたとしても、「我関せず」と感じずにいることはできるのである。
品質工学の論調に「技術者は責任をとらない」「社会の損失の最小化をめざすべき」というものがあるが、果たしてそのようなべき論だけで事態が解決するのかどうか甚だ疑問である。
広がりそうで広がらない品質工学のパラダイム、この「見えていない」原因と、「見えていたとしても御しようのない現実」のなかで、あまねく企業人に原理的に品質工学の真髄を説いても、反発に会うだけなのではないだろうか。
品質工学を選択しない人はバカではない。少なくとも理解した上で確信犯的に選択しない人も多数なのだ。優秀な人の大多数は汎用技術ではなく自分の専門性においての業績に興味があるのだから。
後日、このあたりのギャップについても掘り下げたいと思う。

2006/08/23

安全率の幻想

最近、哲学がかった話題が多かったので、現実的な技術論に話を戻す。

 現在、新接合技術(溶接の一種と考えていただいてよい)をQEで開発中なのであるが、この接合強度のスペックに対する考え方について、改めて知ったことがあったので、それを述べたい。
(下名が全く知らなかっただけで、当たり前の話であればご容赦願いたい)

 話を単純にするため、仮に接合強度の開発スペックが、所定のノイズや使用条件など諸条件下で100N以上必要であったとしよう。ここで、開発した条件での平均強度が220Nであり、市場で良品と認定できるばらつき範囲が±20Nであったとしよう(すなわち、ノイズ条件下でたとえば99.99%が200N~240Nの範囲に入る)。この場合の設計マージンはいくらであろうか。
 この話を機械技術者と行ったとき「安全率」という言葉を双方が使っており、当方はてっきり、平均値(220N)から20Nばらついており、100Nまで許容されるのだから、安全率は6倍だと思ったのである。つまり、望目特性の考え方である。この考えに何の疑問も持っていなかったのである。
 ところが、機械技術者(世の中)の常識では、スペックが100Nで、ばらつきの下限が200N(=220-20)であれば、安全率は2倍だという。つまり0Nを原点とした望大特性の考え方である。
 この考え方に基づけば、どんなにばらつきが少なくても、物理量が原点より離れていれば安全率は限りなく小さくなってしまう。たとえば、スペックが1000Nで、平均値が1120N、ばらつきが±20Nの場合、当方の考え方では同じ安全率6倍(SN比で考えれば、平均値が220Nの時より25倍くらいSN比が良くなっているにもかかわらず)となるが、機械技術者の考え方では1.1倍になってしまい、悪い判断となってしまう。

 このような指標でマネージメントされる限り、ロバストネスという考え方はなかなか根付かないだろう。なにしろ、物理量の原点によって評価結果のよしあし(ひいては技術者の能力)を判断されしまいかねないのだから。

 静特性は望大特性より望目特性で評価せよ、と言われて久しいが、世の中の常識は未だかくのごとしなのである。

注釈
品質工学では安全率すなわち工程内規格は損失関数によって定められることを承知している。上記は、現在のパラダイムのなかで議論したなかでの出来事であることをご承知願いたい。

2006/08/20

「分かっちゃいるけど」の壁を超えられるか

以前ここで取り上げたDr.コヴィーの「7つの習慣」であるが、思うようにページが進まない(この間10冊以上のほかの本を読んでいるにもかかわらずである)。最後まで読まずに勝手なことはいえないが、おそらくここに書かれている成功の原則のようなものは、一面では経験主義的な真理を突いているのであろう(ただし、米国化された近代資本主義社会の枠組みの中で、であるが)。
 ところがなんとも退屈なのは一言で言うと「書いてあることは正しい」のだが、「それを得心して自分のものとして運用していく」という観点では書かれていないように思われる点である。すなわちDr.コヴィーは原則を示しているのであり、それをどう自分の問題として捉えて、パラダイムシフトを起こしていくのかはあなた次第、というところがある(もちろん、そのことでこの著書の価値が落ちるとは思わない)。  「分かっちゃいるけど」できないことは我々凡人には多すぎるのである。

 この点で、品質工学の原則論は技術論のパラダイムシフトであることは疑いの余地がないが、それを実践、推進していくのは難しいという意味で似たようなところがあると感じる。つまり、自分の外側にある事象や法則、戦略論のパラダイムシフトなのであって、それを運用する人の考え方そのものを揺るがすようなパラダイムシフトを与えるに至っていないのである。もちろん、外側のパラダイムを理性で解釈でき、また豊かな感受性で感化されて、内側の自分をモーチベートして品質工学を続けている方はたくさんいらっしゃるのであるが、それでもつまりは「あなた次第」なのである。

 そこでさらに一歩進むために、1つのヒントを与えてくれそうな本を紹介する。最近読んだ本で、人生や生きがいに関するパラダイムシフトを引き起こしてくれた本がある。「生きがいの創造」(とその一連のシリーズ:飯田史彦著)である。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569573142/sr=1-1/qid=1155430985/ref=sr_1_1/503-9999759-3811105?ie=UTF8&s=books

 この本はおそらく、科学技術にどっぷり漬かった唯物論者は目次を見ただけで拒絶反応ものだろう(下名もその一人であるが、なぜこの本を読むことになったかは「出会い」と言うしか表現が思いつかない)。本書では、意識体(いわゆる「魂」)や中間生(いわゆる「あの世」)などの、意思や大学教授らによる実証論的な科学研究成果を検証しながら、人間の存在理由や人生の意味を1つの仮説から紐解いてゆく。本書の筆者は経営学者(大学教授)であり、本書で扱うのは最終的には「生きがい」論である。  本書の仮説を1つの考え方として受け入れてしまえば(またそう考えることに全くリスクがないことも親切に解説されている)、人生は非常に力強く、また精神的に安定なものになるだろう。なぜそう感じられるのかは本書をあたっていただきたい。無神論者でも、また「人生論など他人に説得されたくない」と思う方でも読んで損はない1冊である。

 さて話をもとに戻すと、上記「7つの習慣」のような「原則は正しいのだろうが、分かっちゃいるけどできない」に対して、その人の内面の考え方やスタンスに対してパラダイムシフトを起こしてくれる可能性があるものの1つのが飯田氏の書の考え方である。

 品質工学の原則論はおそらく正しい(下名に真理など知るゆえもないので、あくまで他の考え方との相対比較でしかないが)。しかし「社会の自由の総和の拡大」というところまで得心して、それを技術者の生き方として実践していくためには、少なくとも下名のような凡人にはなんらかの人の魂をゆさぶるような経験(それが1冊の本なのか、人との出合いなのか、研究の成功体験なのか、臨死体験なのか・・・はさまざまであろう)が必要なのであろう。

  かく言う下名もまたその探し物の途中である。

2006/08/15

ミスティックな研究指導者

  新しいことを啓蒙推進していく者の姿とはどのようなものなのであろうか。

 「孫子に学ぶ研究開発の兵法」(佐野健二著:東芝) http://www.amazon.co.jp/gp/product/4893469509/ref=sr_11_1/503-9999759-3811105?ie=UTF8
の一説に以下のような記述があるので紹介しておく。

「人間が非常に大きな力を発揮するのは使命感を持ったときであり、崇高な理念に支配されたときであろう。したがって研究指導者は一種の宗教家に近い能力を発揮しなければならない。すなわち研究の動機付けや研究の意義の解説に通常の管理職以上の能力が要求される。」

 「胆識」とはこのような能力のことを言うのであろう。

 しかしえてしてこのような方が必ずしも政府や企業で要職についているとは限らないのが世の実態でもある。

2006/07/02

因果性とSN比

 田口玄一博士は「SN比は数学では証明できない」としばしばおっしゃっている。品質工学を統計学だと思っている人には「そんなバカな。統計学で数理的に解けるのではないか」「それでは学問の体をなさないではないか」という疑問が起こるであろう。これは以下のように考えてみてはどうだろうか。

 一般に因果性の記述が科学であると言われるが、もともと「因果」というのは仏教の言葉であり、そこから転じて現在では「原因と結果の関係」を意味する言葉になっている。もともとの「因果」の意味は、「原因だけでは結果は生じないとし、間接的要因(縁)によって結果はもたらされるとする(因縁果)」のである(Wikipedia「因果」より)。すなわち、東洋思想における因果とは、回帰式(y=ax+by+c)のように単純に示される限定された、単純な関係ではなく、ほとんど無限の要因が絡み合って結果ができていると考えているのである。

 科学的思考では、現象をモデル化し、数式(関数)で表し、そのように記述されたものを重視する。田口博士の考え方は仏教と同じように、物事(特に人間の創造した人工物)のふるまいは決して限定された関数で表すことのできない複雑なものと捉えている。田口博士の提唱するSN比は、現象を関数ではなく、お客の立場でのSignalとNoiseへの分解と、その比による評価、という「量」で示した点に従来の考え方との差異がある(このことは、従来の分布で考える信頼性工学と、そんなものは実際には複雑すぎて記述できないよ、という立場の損失関数の関係と同じである)。

 日本人である田口博士と仏教の因果や縁起という東洋の思想との一致は偶然ではないだろう。ついでに言えば、仏教における「空」の発想からインドで「ゼロ(0)」の概念が生まれたのだと言う。インドに大統計学者マハラノビスが誕生し、現在では「マハラノビス・タグチ・システム」として「(回帰式的な因果関係ではなく)無限の要因が絡み合っている」と考えられるパターンの世界に対して1つの考えを形成しているのも、また歴史的必然なのかもしれない。

 少し話が大きくなってしまったが、我々は100年、いや1000年に一度の科学・技術的なパラダイムシフトの提言がされて、発展しつつあるこの現在に、今同時代に生き、またそれを勉強・活用・開発できる僥倖に恵まれている、ということは確かだろう。このようにいろんな考え方に出会えるから人生は楽しい。

科学の壁、あるいは井の中のカガク

大型連休ともなると何十万人が海外旅行に行く時代になって久しい。それでも比較的単一な民族・文化を持つ日本人にとって、初めてあるいは久しぶりに外国に行くと「ああ、自分は日本人なんだなあ」と気づくことができる。つまり、「外国」という世界があり、そしてそれを見聞きし、「日本」を相対化することで初めて日本がなんたるか、日本人とは何者なのかを知ることができる。

 我々は「科学」という非常に強固に社会(学問、経済、政治、マスコミ、義務教育・・・)に組み込まれた考え方(パラダイム)の中に生きている。科学的なモノの見方が幼いころから刷り込まれているので、その考え方の枠組みを相対化してモノを見ることが非常に困難になっている(そのような人はそのことを自覚することすら難しいのであろうが、科学がほかの考え方に対しての絶対的な優位性を持っているわけではないことの説明は類書に譲る)。なにしろ、科学以外の考え方を合理的に相対化して考えようとしても、やはり「科学的」に考えざるを得ないのである。つまり、普通は「科学」を相対化するための「外国」に当たる考え方がないと考えられている。

 品質工学の考え方はまさにこの科学的枠組みの「外国」を提示するパラダイムであろう。科学的なモノの見方を問題にすること自体が困難になっている現在、それを相対化して、場合によってはそれを批判する品質工学の見方が受け入れられるのは、上記の理由からまだまだ先なのかもしれない。その外側にほとんど考えをめぐらせることができない内側がパラダイムと言われるものなのであり、それを意識、自覚することは(特に「科学」の場合は)難しい作業である。このことは、「外国」を知らない人からすれば、科学を批判することは即「アヤシイ宗教」を意味すると考える人ということから容易に推測される。

 「外国」の存在を示しその有用性を訴えたからといって、「日本」(元のパラダイムである「科学」)が不要であるとか有効でないと言っているわけでないのであるが、なにしろ現状では「科学」に匹敵するほど、社会制度を挙げての投資と保護を受けている考え方は他にないし、またサラリーマンほど保身と同調の生き物はいないのだから、井の外の考え方を唱える者は「異端」「村八分」の扱いになっても仕方がないのかもしれない。しかし大勢は従来思考とはいえ、近年の品質工学の動きは拡大の一途を遂げているのは事実であるし、少しずつ時代は動き始めているのであろう。

 最後に、「外国」を語る上で気をつけるべき点としては、今以上に「日本」(つまり科学的なあらゆる手法や考え方)を知ることと、他にも「外国」があるかもしれないという点を忘れないことである。自分のいる場所が唯一の「外国」と考えた瞬間、それはすでに他に考えが及ばないことを意味するのだから。

(参考文献、石井励 メールマガジン「ポストモダンでいこう」)

2006/06/03

パラメータ設計の目的





 すでに田口博士ほか言い古されたことかもしれないがもう一度確認しておく。

 新開発品や新技術の評価は、設計の最適化そのものにも意味があるが、第一義的には「技術方式の素性が悪い」ことを早期にあぶりだして、できるだけ上流の段階で、設計の見直しを行う判断をすることにある。そのためには、効率的で確実な評価方法の提案が必要である。また、上流での品質確保により、量産や市場でのトラブルを前もって対策しておくことに、品質工学適用の大きな意味があると考えられる。

 一般に評価の効率化の手段として、品質工学で使用する直交表の効果を挙げることが多い。例えばL18直交表では8つの制御因子のすべての組み合わせ4374通りが18通りの評価で済むからという理由からである。しかしながら、これはほとんどの場合誤解である。直交表は品質工学以前の実験計画法においても、国内で半世紀以上前から広く用いられており、品質工学特有のものではない。また品質工学はそれによる工数削減を主張していない。直交表は効率化ではなく、以下に述べる、上流の設計段階における評価の確実化のために活用する。

 仮に、制御因子の効果がすべて独立であれば、直交表を用いずとも最適と思われる設計には比較的容易に(例えば、1つずつ因子の水準を振ってみて、よい水準を順に選んで行くという方法でも)たどり着くことができるであろう。このようにしてたどり着いた設計条件は、制御因子の効果がすべて独立であるということが分かっている場合のみ有効であるが、実際の新開発、新設計の現場では、制御因子の効果の独立性はおろか、効果の方向性(符号)すら分からないことが多い。制御因子の出力やばらつきに対する効果の独立性が不明の場合は、上記のようにしてたどり着いた設計条件は、ある条件の組み合わせの時にだけ成立する局所最適である可能性が高く、設計全体の最適条件であるという根拠はどこにもない。また逆に、さらによい条件があるかどうかも不明であるため、前記の局所最適条件でスペック未達成の場合、さらに設計改善をのための評価を続けるのか、それとも技術方式そのものに見切りをつけ、別の方式の検討を始めるのかの判断が困難である。一般に、評価のやり直しが多く、開発が長期化する原因の1つはここにある。

 そこで、制御因子同士に大きな交互作用がない(=制御因子の出力やばらつきに対する効果の独立性が高い)かどうかをチェックするために、網羅的に、しかも最小の組み合わせで因子・水準を評価ことができる直交表を用いるのである。個々の制御因子の独立性が高い系であれば、最適化は容易である。また、独立性の低い(交互作用の大きい)因子が混在している場合においても、それに影響されないような、大きな効果がある制御因子を見出せれば、それを設計に生かすこともできるのである。従って最適化そのものは、パラメータ設計の狙いとして重要でない。逆に、制御因子の独立性が全体に低い場合は、直交表で指示された評価実験(例えば18通り)の結果だけでは、評価していない設計条件の結果(含む最適条件)が全く予測不能である。直交表の解析では効果の加法性を前提とした計算をしているからである。このような設計では、合わせ込みによってスペックを達成できる設計ができたとしても、量産や市場に行ってトラブルを起こしやすいのである。なぜならば、高々設計段階で検討した8つの因子の間でさえ交互作用があるのだから、多数の未検討、未知の因子が存在する量産段階、市場段階では、何が起こるか予測ができないからである。

 従って、少なくとも上流の設計段階で、制御因子間の交互作用が少ないこと、また多少の交互作用の中でも再現する大きな効果のある制御因子を見つけておくことが下流でのトラブル抑制のため重要であり、これがパラメータ設計の目指すところである。

2006/05/21

金の卵を産むガチョウの話

忙しさにかまけて1ヶ月以上もBlogをサボってしまった。
このままではズルズルと行きそうなので、ちょっとしたことでも書き連ねていきたいと思う。
まあ個人の戯言のページなので気長にお付き合い願いたい。

 さて、少し古い本になるが、会社の人材開発部門の人の薦めで「7つの習慣」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4906638015/250-6570295-6006642)を貸していただいて読んでいる。今回はこの本の内容に関する話ではないのだが、この中にグリム童話の金の卵を産むガチョウの話の一説が出てくるので紹介したい。

 話のあらすじはこうだ。ある農夫がガチョウの巣に金色に光る卵を見つけた。何かの冗談だと思ったが農夫はそれを市場に持っていた。それは純金でできており、農夫は大金を手にしたのである。来る日も来る日もガチョウは毎日1つずつ金の卵を産み続け、その農夫は卵を売ることで大金持ちになった。ある日富豪になった彼は考えた。毎日1個では面倒なので、ガチョウの腹の中にある卵を一気に手に入れようと。そしてあろうことか、彼はガチョウを殺してしまったが、腹の中にはなにもなかった。彼は金の卵もガチョウも失ってしまったのである。

 このことを引いて本書では、黄金の卵(P:Performance)とガチョウ(PC:Performance Capability)のバランスの大切さについて述べている。企業においては金の卵は短期の成果、ガチョウは長期の成果ということであろう。

 工程内合格の製品を出荷するのは、目先の納期遵守や工程内不良率の向上には功を制するだろう。しかしこれが機能性を無視した製品ならどうか。市場での故障が多い製品は結局お客にも企業にもコストがかかることになり、社会的に損失を拡大する。目先の金の卵をあせったばかりにガチョウを殺してしまうことになりかねない。この逆も真で、過剰品質・過剰性能にこだわった長期間の研究開発も非効率である。短期の回収ができず企業のキャッシュフローが悪化するのも社会的損失であろう。

 前述のように、要はPとPCのバランスなのである。品質工学ではこれを「損失関数による社会的損失の最小化(企業とお客のロスのバランス)」という観点で明確に提言している。このようなことからも、企業の一員である技術者や経営者と、お客の集合体である社会とのつながりを考えることができるだろう。品質工学では、さらに(というかこちらが本論であろうが)、「研究開発の効率化・合理化のための具体的方法論」を提言している。これはさしずめ、いかにガチョウを疲れさせず、多くの卵を取り出すか、元気でよく卵を産むガチョウをどう育てるか、という総和の拡大の話である。

 コヴィーの「7つの習慣」はまだ読み始めたところであるが、ドラッカーやタグチがそうであるように、本質をついたものというのは、深い部分で一致しているように感じる。そのうち、技術開発における7つの習慣が品質工学である、というようなレポートが書けるかもしれない。これも個人の戯言ということで、期待せず気長にい待ちいただきたいところである。

2006/03/09

すべての品質工学学習者に捧ぐ!
  竹内薫「99.9%は仮説」 レビュー

良い本に出会った。新刊で本屋にも平積みされているのでご存知方も多いだろう。竹内薫「99.9%は仮説 -思い込みで判断しないための考え方-」(光文社新書)をレビューする。

 本書は、科学史や科学哲学をやさしく紐解いて、科学と技術の違い、さらに常識を覆す新しいパラダイムへの見方などに関して再認識を迫るものである。品質工学を学ぶものにとって、その考え方に対する「心の準備」が行える好書といえる。品質工学の初心者のみならず、ベテランの方にもぜひ薦めたい一冊である。以下ほんの一部を紹介しながら、品質工学の「あり方」との関連を簡単に述べてみたい。 (本書では品質工学に関しては何も触れられてないので、念のため)

 本書ではまず、飛行機がなぜとぶかまだ分かっていないという話から、
「工学(実用)は試行錯誤と経験。わかっていなくても飛んでいるからそれでOK」とし、
また、麻薬犬の方がどんな化学センサよりも、化学物質を嗅ぎ分ける感度が高いので実用されているという話から、
「現実にうまく行くことと、それが科学的であるかどうかは、全く次元が違う。」としている。
確かに、理論より先に現物ができることはよくあることである。

 また、ガリレオの望遠鏡の話では、大発明である望遠鏡を当時の権威である大学教授らに見せたところ、
「完璧であるはずの天上界の月に凸凹があるのは望遠鏡が間違っている」
と、現実の方を否定されたのである。「天上界が真」という演繹法が当たり前の世界での判断である。
その時代やその社会に浸透している常識の前では、大学教授と言えども目が曇ってしまうのだ。

 このように演繹法では、データで常識(前提、仮説)を覆すことができない。逆に、データが新しい理論を作ると考えた(帰納法)のはベーコンであるが、科学や技術が高度に発展したと考えられている現在でも事情は同じであろう。

 「科学法則が真理」の常識の世界ではノイズや信号を考えた直交実験の結果という事実の前でもそれは否定されうる。
「メカニズムが分からないものは信用できない」「理論に合わない」と。
つまり現実の方が否定されるわけである。ひとつの真理(科学法則)ですべてが説明できる、というのはモノを実用化させるという現実の世界ではいかにもナイーブな考え方であるし、現実の世界の複雑さに対峙する技術者としての謙虚さを欠いているといわざるを得ない。

 「科学法則やメカニズムの解明で説明できるはずだ」というのは広く行き渡っている常識であろろうが、常識が違うと話がかみ合わない。本書では以下のような切り口で科学哲学論をベースに話を進めている(詳細は本書をあたってほしい。頭を使って考えたい人には、「バカの壁」よりずっと面白いはずだ)。
「世界の見え方自体が、あなたの頭の中にある仮説によって決まっている。」
「人は自分の都合の良いように解釈する」
「科学は仮説にすぎない」「常識は最新の仮説の集まりである」・・・等等。
 
 本書ではこのような、「同じコトに関してを話しているつもりが、言葉が通じない」という現象を「共約不可能性」で説明している。共約というのは平たく言えば翻訳のことで、お互いに違う常識(個々人が持つ複雑に絡んだ仮説のネットワーク)が違うので、同じ言葉も全く違う概念で使用され、それは不可避なものである、ということである。

 品質工学の考え方を説明しても「品質」「機能」「技術開発」などの意味が従来と違うのだから、常識が違う人にその言葉で説明しても、話が食い違うのは当然なのである。
本書では、「翻訳が”完璧に”できないから最初からあきらめるのはナンセンスで、お互いに拠って立つところの仮説に気づくことにより、相手の心積もりもそれなりに理解できようというもの。それが現実の世の中。」としている。

 さて最後に本書の引用から、
「古い仮説を倒すことができるのは、その古い仮説の存在に気づいて、その上で新しい仮説を考えることができる人だけである。」
ということを取り上げたい。
(言葉は易しいが、パラダイムシフトのことであり、天才の仕事であるなあ・・・これは。)

 この点で田口博士の品質工学は、統計学、因果関係の研究という古い常識の存在に気づいて、「すべて間違い」と言い放った上で、新しい具体的方法論、考え方を見事に提示している。
技術開発の分野における、地動説や相対性理論なみの発見で、天才と言われるゆえんだと思うが、常識が違えば理解できないというのは、上記のとおりである。数理や用語が難しいのもあるが、品質工学が理解されにくいのは、「共約不可能性」の問題であろう。

 また逆に、品質工学をやっている我々が戒めるべきは「品質工学が真」という大前提に立って演繹法の考え方になって、独善的に押し付けてしまわないことである(これでは変人ですよ)。
あらゆる考え方に触れて、それらを見比べることにより、常に疑うというスタンスを持っていれば、弱点や足りない点が見え、さらに品質工学を発展させていくことができるということである。

 この点に関する再認識を得るだけでも、品質工学の学習者がこの本を読むに値すると感じるし、科学史や科学哲学をこれから深めていこうというきっかけにもなる1冊である。良い本や考え方に出合えるから人生は捨てたものではないと思う。

2006/03/03

設計品質のモノとコト

 今年度の品質工学研究発表大会(QES2006)のテーマは「モノ・コトの見極めに改革を」である。Kazz先生の掲示板http://www2.ezbbs.net/12/kazz/でも「モノ・コト」に関するお話は取り上げられている。

 品質工学に限らず、一般の技術開発、設計部門でも「設計品質」という言葉がたびたび話題に上っているだろう。「設計品質を向上しなければならない----」「このようなことが起こったのは設計品質が悪いからだ----」「品質工学で設計品質の革新を行おう----」といった具合である。誰もがさも設計品質という言葉を既成の定義された用語のように、また各人の解釈でこの言葉を使用しているが、職場や研究会のコミュニケーションにおいて、この言葉は共通認識として正しく使われているだろうか。「設計品質を良くするために品質工学を・・・」と言ったときに、各々の考える設計品質の認識は同じであろうか。

 筆者が思うに「設計品質」というときには、言外には2つの意味があるのではないかと思う。1つは製品や技術における設計の品質で、品質工学では機能性と呼ばれているものである。さしづめ「モノの設計品質」と言ってよいだろう。もう1つは人や組織、技術開発のやり方、スタンスに関する「コトの設計品質」があるのではないか。この2つは、近くて遠い課題で、前者は主に評価手法や改善手法などのツール的な部分、後者は人の考え方、組織の体質、哲学の部分の問題である。

 品質工学のこの両方の側面から具体的方法論や考え方を示しているが、現実の現場への浸透を考える場合には、それぞれ推進のやり方や、タイミング、もって行くべき場所(職制)をうまく切り分けてゆかなくてはならない。ツール的な真似事では設計品質への真因への到達や本質の改善ができず、また哲学や理念だけでは納得感のある推進展開にはならないのである。

 これはちょうど、カンバン方式に代表されるトヨタ生産システムの手法だけをまねしてもうまくいかないのと同じである。トヨタの成功の要因には、モノであるシステムと、コトである従業員のカイゼンに対するDNA(習慣といってもよい)が根底にある。品質工学をこのDNA、習慣レベルに根付かせるのは、トヨタシステムと同様、時間のかかる仕事であることは間違いない。トヨタシステムについても品質工学についても言えることは、最終的にはトップマネジメントの気づきと、信念であるということと、モノとコトに関する成果の定義を行う必要があるということである。

2006/02/25

損失関数と限界効用

 今回は結論のない話で恐縮だが、今後の問題提起として述べたい。

 機能限界での損失を定義し、目標値からのずれの2乗で損失が増加する損失関数のモデルはそのバックボーンとなる数理や、内在する損失のモデルの考え方からして、ロジカルに見える。しかしオンライン品質工学や許容差設計をやってみると、合理的に決めたはずの許容差や、工程チェック間隔・修正限界が現場の感覚として、受け入れがたい(ほとんどの場合過剰に見える)という現実がある。合理と感覚の違いで後者は思い込みである、というのは簡単であるが、はたして損失関数の考え方は、合理であっても妥当なのであろうか。

 全く別の話になるが、人はなぜ期待値が原資を割ってしまうことが明確な宝くじを購入したり、掛け捨て保険に加入するのであろうか。これについては、経済学で「限界効用」というテーマで古くから研究があり、要するに経済的に同じであるはずの1円(1万円でもよい)の効用(満足度、損失の場合は苦痛)は一定ではないということである。多くの人にとって宝くじの1等で手にする賞金は普通の生活の延長線上ではない生活ができるという意味で、特別なものである。限界効用の考え方は、普通に手に入れられるお金と、宝くじでしか手に入らないお金とでは全く違う価値を持っていると考えているので、期待値が明らかに原資を割ってしまうような宝くじを購入するのである。保険についても、多数の人から原資を集めて特定の者(こちらは幸運ではないが)に保険金が支払われるという意味で構造は同じである。今これをご覧になっている読者も、ほとんどある種のくじの購入や保険の加入の経験があるだろう。こう考えて見ると、現実には経済的合理性だけで物事が決定されるものではないと言ってもよいだろう。

 損失関数のシンプルなモデルは、古典経済学で考えるような1円はいつでも1円という考え方に、ある意味でのナイーブさを表してはいないだろうか。現場で今手にする1円、失う1円と、製品が市場に出てから(さらに何年も経ってから)の1円は同じだろうか。 製造業に限らず、経済活動、経営活動は生身の人間が刻々と判断を行っている(だからサイエンスではなくアートである)。コンピュータには経営はできない(経済性ONLYの投機活動はできるのかもしれないが)。この点は考慮には値するだろう。

 もしかすると的外れな議論かもしれないが、現実に合理の解と現場の感覚に差異が生まれているのだから、あらゆるものを疑ってみる姿勢は必要であろう。まだ思いつきレベルであるが、今後、この場で議論を深めていきたい。

ノイズ -M夫妻への結婚のお祝いの言葉に代えて-

 もう昨年になるのだが、大学時代のサークルの後輩同士がゴールインしたということで、サークルの機関紙にお祝いの言葉として贈った文章を一部掲載する。品質工学の考え方になぞらえたものである。

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 まずは、S君、Tさんおめでとうございます。 M夫妻はしっかりしておられるので、今さら結婚式での訓示のようなことを言うのはおこがましいのですが、社会人、家庭人の先輩としてアドバイスをひとくさり言わせてください。 これから家庭生活だけでなく、社会人として、日本国家の成員として生きていく上で決して道のりは平坦ではないと思いますが、まず確認しておきたいのは「自分以外の人(⊆法人、国家)はずべてノイズだ」ということです。これはちゃんと説明しないと大きな誤解を招くおそれがありますね。よく言われることですが、「人の考え方や行動を容易に変えることはできない」ということです。特に40歳以上になるとひどいものですね(私もそろそろそちらの仲間入りですが・・・)。もちろん、考え方や行動が変わることもあるのですが、「三つ子の魂100まで」というように、歳をとればとるほど本人の努力でもなかなか変われないものです。ましてや他人に言われたくらいで変わるはずもありません。これは社会に出て自分の考えや新しいやり方を通して行こうとした時に必ず阻まれる「文化」「慣例」「経験則」「現場のしきたり」などという壁に当たることで知ることになります。程度の差こそあれ、結婚というものも、もともと他人同士が一緒になるわけですから「育ってきた環境が違うから価値観は否めない♪」わけです。「いとしの配偶者がノイズだなんて!」と怒られるかもしれませんが、やはり長い目で見れば「個」と「個」がぶつかる局面が必ずあるわけです。これは血がつながった家族(親子)なんかでも同じです。前置きが長くなりましたがまず「自分以外はノイズ=基本的にはコントロール不能なもの」ということを押さえておきます。

 さて言いたいことはこれからなのですが、これから家庭生活、社会生活を送っていく上でうまくいく考え方というかアドバイスをこれまでの経験から言いたいと思います。今は順風満帆でも5年、10年後に何かあったときのための1アイテムとして聞いておいてもらえればと思います。それは一言で言えば「あてにしない」ということです。「妻や夫としての役割をあてにしない」「会社に昇進や明日の雇用をあてにしない」「国家に年金や安全をあてにしない」「銀行に元本保障をあてにしない」「親に遺産をあてにしない」「子供に老後の介護をあてにしない」「会社の他部門の計画をあてにしない」「石油が輸入できることをあてにしない」・・・いくらでもあります。あてにしなければ「裏切られた」「こんなはずじゃなかった」「自分はちゃんとしていたのに○○のせいで」ということもないわけです。じゃあ、何もあてにしないで一体どうして生きていくんだということになりますが、これも一言で言えば「あてにしない前提で生きていける自分とその環境を創っていく」ということなんです。コントロールできるのは自分の考え方と行動だけですから。その対極にある考え方は、いろんな不測の事態に対して責任を外部に転嫁する、それをコントロールしようとするということでしょう。これは非常に疲れますし、非生産的です。ブルーになりますし、血圧も上がります。 自分が自分以外をあてにしないからと言って、相手からあてにされない態度をとるべきだとは言いません。むしろ、自分がよいと思うことは相手に対して「見返りをあてにせず」どんどんやっていくことが重要です。自己満足でも大いに結構。夫婦がお互いにそのように振る舞い、それぞれは1個の「人」同士として生活して行ければ、そのなかで家庭生活は安泰なのです。会社でもそうです。株主の利益のためでもよいし、お客様のためでもよいしですが、よいと思う信念に基づいて貢献してゆけばよいのです。国家に対しても同じです。このサークルもそうですね。

  品質工学と従来の他の手法との最も大きな考え方の違いは、外乱となるノイズを消そう・減らそうというのではなく、現にここにあるノイズからの影響を受けにくくなるように設計することなんです。これをロバストネス(頑健性、技術の安定性)と言っています。これまでのQCや信頼性工学の手法というのは、ノイズの原因を調べてそれを減らす対策を後始末的(火消しともいう)にやっていたのですが、別の未知のノイズに対しては不具合がでるまで対策できません。これが市場で発生したらリコールとかで大変なんです。品質工学の方法がよいのは、ノイズは直しにいきませんので、ノイズに対して安定にしておけば、未知のノイズや今は印加されていないノイズに対しても安心ということなんです。 ここまで言えばなぜ品質工学の話を引き合いに出したか分かってもらえたと思いますが、人生の場面においても、いろんな不測の事態に対してその度におろおろしたりイライラしたり、コントロールできないものをなんとかしようとするのではなく、自分自身が頑丈になるのが大事なのだと。そのための努力と準備を自分の責任でしておくのだと。「あてにしない」ことなのだということなんです。だから究極的には、「自分以外はずべてノイズ」ぐらいに考えて行動しておけば、精神衛生上非常によく、鬱や高血圧を回避できるのです。(もちろんこれは総論ですので、実生活では”あてにできるもの”は確率の範囲で見込んでおくのですが)。

 若いうちは社会に出ても最初は充電期間であるため、がんばりに対しての経済的な対価は大きいものとは言えません。私も「なんでこれだけやっているのに、こんな給料が安いんだ」と思ったものです。そういう意味では仕事をするときにはできれば好きなことをやってほしいと思うのです。お金とは面白いもので、若いときには上司先輩から言われた仕事が大半で、忙しく働いているときには身入りが少ないのですが、ある程度中堅になって自分で仕事が作れるようになってくると今度は仕事が面白くなってきて、お金はあまり気にならなくなる。そうすると、いつのまにか「プロ」と呼ばれる人たちに近づき収入や昇格なんかも後でついてくるのです。先ほど「会社を当てにせず」とか「見返りを求めず」と言いましたが、これができるためには「好きなこと」をやるということに尽きるのではないでしょうか(もちろん上司に恵まれるかどうかという要因が大きいのですが)。同様に家庭においても同様に「プロの夫・妻」「プロの親」とは何かを考えて行動することになりますね。

末永くお幸せに。

2006/02/19

長谷部光雄「ベーシックタグチメソッド」 レビュー

 品質工学の入門書ということで、長谷部光雄氏の「ベーシックタグチメソッド」が発刊された。
紀伊国屋書店で立ち読みで斜め読みしたときにいずれ買おうと思っていたのだが、幸い参加している研究会での配布があったので、入門者・初心者への教育を行う立場として読み込んでみた。

 これは「やられた」の一言である。最近でこそいろんな品質工学の入門書や解説が出版されているが、それでも全くの初心者向けでそこそこ体系的にまとまっているものとなると、これと言ったものがなかったので、いずれ自分で書こうかと思っていたのである(もちろん社内向けであるが)。

 これまで、社内の講座で入門書として薦めていたのは(田口博士のものではなく恐縮ではあるが)、管理職を含めた一般向けには、上野憲造氏の「機能性評価による機械設計」の前半の解説編と、技術者向けには立林和夫氏の「入門タグチメソッド」である。この2冊は非常に品質工学の考え方の要点がまとまっており、入門向けにぴったりということで、社内で買いこんで配り歩いていたのである。

 そこでこの「ベーシックタグチメソッド」である。パラメータ設計に入る前の機能性やノイズの考え方を、非常に丁寧にしかも面白いたとえを活用して説明してくれている。「入門タグチメソッド」では最初にエンジニヤードシステムの説明から入るのであるが、文系や実務経験のない新人などいわゆる技術的な概念がない人には少し難しいのかもしれない。ライト兄弟やガウディなどの歴史上の偉人の考え方を引いて、技術に対するものの考え方を説くコラムも工夫がなされており楽しく読める。

 また個人的には2つの話が特にためになった。1つは「寿命」の分布に関する話である。機能性と寿命の対応の話は、概念では理解できてもなぜそうなのかは説明しにくいものである。本書では理想寿命(ノーストレスの時の限界の寿命)という概念を持ち出し、そこからのばらつきを考えるので、寿命に関しては若い方(短命な方)にしか分布が広がらず、機能性の改善によって分布が理想寿命に近づくので平均寿命も高くなるという説明は説得力を感じた。もう1つは、評価の方法の妥当性を考える上で、自分が新薬の被験者になる場合を想定し、繰り返しを多く取らなくてもたくさんのノイズを調合して評価するほうが安心である。お客の立場になって考えるというのは、自分の生命や大きな損害までを想定したたとえで考えないと考え方が実感できない、というような話が面白く納得もした。

 他にも示唆に富む話が多く、筆者の見識の深さを感じさせるものであった。今後、社内教育で初心者に説明してゆく際の良い参考になることを確信した。次回(早速明日2/20であるが)の教育では、入門者用の推薦図書として本書をイチオシするつもりである。

2006/02/14

ドラッカーと田口博士の未来観

鼻持ちならないが、ドラッカーの言葉を引用する。


「未来を予測しようとしても無駄である」

       (「創造する経営者」より)

ドラッカーは企業経営のあり方を指してこう言ったのであるが、これは技術開発についても同様に言えることである。すなわち、市場に出て行った製品がどのような使い方をされ、どのような環境でどんな劣化のストレスを受けるのか、その1つ1つの現象について、またその総体について正確に予測することは不可能であり、もちろん完全に対策することも不可能である。

したがって通常は、JISや社内で取り決めた一定の規格試験や検査を行い、決められた環境試験の結果と、出て行くときの性能でOK、NGを判断して出荷している。そもそも考えても仕方ないと思っているので、そのような試験をやって市場でNGが出ても内心「仕方がない」と思っているのである。

では品質工学ではどうするか。これについてもドラッカーはこのような示唆を与えている。

「変化をコントロールする最善の方法は、自ら変化を作り出すことである」

       (「明日を支配するもの」より)

つまり、変化(この場合市場での使用条件や環境、劣化など)をコントロールすることはできない。できるのは開発設計段階で、それを自ら作り出すことであると。田口博士は図らずもドラッカーと同じように、技術の上流の開発設計段階で、「誤差因子」を導入することで、予測しても無駄と考えられていた「未来」を予測する方法を編み出し提言したのである。

2006/02/09

自動化ツールの功罪

 今日、来月発売されるというタグチメソッドの自動化ツールのデモに立ち会った。会社名は伏せておく。この会社の本社は米国で、もとGM社のエンジニアが創設した会社だそうだ。
 紹介されたツールは、今回新たにタグチメソッドの解析機能を実装した新製品である。いかにも米国人が考えそうな「タグチメソッド」のツールである。日本の「品質工学」の定義と、米国人が言う「タグチメソッド」ではかなり内容が違うのだが、このツールはまさに、米国人がタグチメソッドと言っているところのものを具現化したシステムと言ってよいようだ。

 CAEとの連成で割付けやCAE実験の自動化、要因効果図の自動作成などが主な機能で、要はエンジニアが頭を使わなくてもできる部分をできるだけ自動化したものと考えると分かりやすい。米国で、直交表を使ったパラメータ設計のことをタグチメソッドと呼んでいるのと同様、このツールもそれを自動化したことを売りにしている。

 このようなツールは一定の作業効率化の役には立つだろう。うまく使えば時間が儲かるのも間違いはなさそうだ。自動化されている部分が実際にネックになっているようなCAEのオペレータには朗報で、年間200万円のライセンス料は、疲れも知らず、決して指示に対して間違えないオペレータを時給1000円で1年雇っていると思えば安いのかもしれない。

 しかし、説明を聞けば聞くほどある不安が募ってきた。このようなツールが出てくることによって、これまで、いろんな意味で一歩引いていた技術者が、安易に品質工学(あえてタグチメソッドとは言わない)が使えるようになると考えてしまわないだろうか。設計パラメータをたくさん入れて、品質特性で多数の設計をじゃんじゃん自動計算する。こういうものが品質工学だと思われることが非常にこわいのである。「こういうのが欲しかったんだよ」と安易に始める人が出ないことを切に祈るのだが、このようなツールを使って正しく品質工学で成果を出すには、よほど良く分かっている人でないと、品質工学の本質にたどりつけないまま、失敗して終わってしまうことになるだろう。

 このツールは頭を使わなくて良いところを自動化してくれているのであって、実験の再現性まで保証してくれているわけではない。本当に難しいのは人間が判断する部分、すなわち機能の表現であったり、ノイズの選択であったり、制御因子の水準の決め方(交互作用が出ないように)などである。この部分についてはツールは無力である。

 そしてもう1つ発見があった。常々、品質工学はツールではない、と言われているが、このような正真正銘のツールを目の当たりにすると、逆にこのようなツールにないもの(できないもの)が何かを考えることによって、品質工学がツールでないことが明確に見えてくるのである。どうすれば再現性のよい実験ができるかを考える部分や、それ以前のシステムのアイデアの部分、これは人間様にしかできない、高度な技術的なナレッジワーキングであって、ここにこそ技術者のオリジナリティーが発揮されるところなのである。

 2時間のデモであったが、反面教師としてみれば、このようなことが再認識された次第である。

2006/02/05

商品企画・研究開発・設計の区別

 先日、関西品質工学研究会で田口先生の講演の中で、フィルタ設計の例をとって、商品企画・研究開発・設計の区別のお話があったので、筆者の理解の範囲で解説する。

 対象は、ある周波数f0以上の入力信号をカットするローパス(ハイカット)フィルタの例である。もちろん、ローパスでもバンドパスでも同じである。このフィルタでは、顧客や電気回路設計者のニーズから理想的には、「ある周波数f0以上の入力信号は0に減衰させ、f0以下の入力信号は100%通過させる」という機能を要求されている。
どのような帯域のどのような性能のフィルタを製造・販売するかは、技術者の問題ではなく、製品企画の問題である。

 一方、企画が決定されたのち、その特性を満足するフィルタを実際に設計(理想的なフィルタの特性カーブに近づけるチューニング設計)するのは、設計者の役割である。

 またその源流で、商品企画に先立って、フィルタの特性カーブの安定性をスペックに関係なく改善しておくのは、研究開発の仕事である。この部分に、品質工学を活用して先行性のある評価改善を行っておくべきとしている。前述のようなフィルタの機能性は、製品企画であるフィルタの目的曲線(特性)とは全く別に、フィルタのカットオフ周波数(パワーが半値を示す周波数)の安定性を評価すべきとしている。

 その後で、特定の帯域の特定の特性のカーブにどう合わせこむかというのは、設計技術者の仕事というわけだ。合わせこむための制御因子の選択や、許容差設計のようなレスポンスの解析がその仕事ということになる。この部分は、大部分がコンピュータによって自動化される部分と考えており、商品企画でスペックが決まれば即座に設計が完了できるようにすべきだ。

 いずれにしても大切なことは、周波数を安定させたり、理想のカーブに近づけたりするためには、多くの制御因子が必要であるということだ。必要十分に複雑な回路でないと、これは実現できない。筆者も以前、SAW(弾性表面波)デバイスのバンドパスフィルタのプロセス(回路設計ではない)をやったことがあるが、やはりシステムである回路のほうのロバストネスが十分に確保できていないので、プロセスのマージンが小さく、非常に苦労した経験がある。プロセスなら社内のコストの話で済むが、市場に言ってからは、技術者はチューニングしに行けない。やはり、システムでのロバストネスを源流で確保すべきということなのだ。

 これは商品企画・研究開発・設計の区別を説明するには分かりやすくてシンプルな例でよいと思う。新人や若手技術者への教育に活用したい例題である。

2006/02/02

健康診断の間隔

お遊びと思ってお付き合い願いたい。

人の健康診断も品質管理と同じなので、適切な健康診断間隔というものがあるはずである。現在、筆者は若いころからもともと血圧が高めなので、重大な病気にかからないように(早期発見のために)2週間に1回の診察と薬の処方を受けている。
(こう書くといかにも不健康そうに見えるが、日常は至って健康である。何事も前始末が肝要ということだ。)

オンライン品質管理で適切な診断間隔を見積もってみる。

A(機能限界外損失)[円/単位量]は、製品と違い命は1つしかないので単位量で見積もるのが難しいのだが、重大な病気の発見が1日遅れた場合の平均ロスとする。発見が遅れて1年で発症し、その場合の損失(治療費や不便など)を2000万円とすると、1日遅れた場合平均のロスは、
A=54800[円/日]

B(診断コスト)[円/回]は、診断料5600円(保険非適用:社会的に誰かが負担しているので)+通院コスト(手間、時間)2000円=7600[円/回]。

C(調整コスト)[円/回]は、重大な病気の注意信号(管理限界)が出た場合の精密検査コストで、C=5[万円/回]。

l(計測タイムラグ)[単位量]は、注意信号がでてから精密検査の結果が出るまでの時間で、l=10[日]

u(平均異常間隔)[単位量]は、注意信号が10年に1回として、u=3650[日]

最適診断間隔nは、  n=√[2B(u+l)/(A-C/u)]=32[日]

となり、現在の診断間隔(14日)は過剰(約2倍の頻度)という結果になった。
損失コストの差分は、  L(n=14)=819[円/日]  L(n=32)=649[円/日]生涯40年での損失の差分は、248万円となる。

この額だけ見ると大きいようだが、診断間隔を変更した場合の40年間の診断料の節約分は1580万円なので、それで差し引き248万円しか変わらないというのは、現在の間隔でも発症による損失とかなりの部分が診断費用と相殺されているようだ。
見積もった値の精度や、実際は保険が適用されて診断料が安いことなども考え合わせると、大切な命のことなので安全側に見積もって、現在の診断間隔でもあながち外れてはいなのかなと感じた次第である。

2006/02/01

品質工学の効果を見せるには(導入期)

 品質工学(パラメータ設計)は、再現性がなくて実験が「失敗した時」にこそ「役に立った」(悪い設計が前落としできた)と言い切れる。しかし失敗したときには経営効果がでないので、経営者は面白くないのだ。
逆に品質工学で一度でうまくいったものは、システム(技術手段)のアイデアがよく、設計に交互作用が少なかったということだから、品質工学を使わなくてもおそらく1因子でやっても同じような条件にたどりついてうまくいった可能性が高いということになる。
改善がうまくいった場合、経営者は喜ぶが、QEとしてはあまり面白くない(田口博士も失敗事例にしか興味がないと仰っていますね)。
だから、経営効果が出てうまく行った事例については改善のアイデアのよさはアピールできても、QE適用の単独効果がうまく表現できないのである。

 品質工学がなぜ現在の経営者にウケないかというのは、1つには「品質工学の効果が見えにくい」からだと言われているが、正確には、「短期的な効果が見えにくい」ということなのだと思う。
損失関数で示されるような利得は、今すぐキャッシュになって懐に入ってくるようなものではなく、同じ規格OKの製品でも市場に出た後で、不良が少なくなり、顧客と企業の損失が最小限になり、ひいては損益改善、技術体力強化、競争力向上という経営効果ににつながっていくという長期の壮大なストーリーである。
(残念ながら、今の自分では「自由の総和の拡大」にまでは考えは及ばない)
現役の経営者が欲しいのは、「今、ここので数字の見える成果」であって、地味でいつ回収できるか分からない前始末の効果ではない。

そのような経営者に目を向けさせるためにはまずは、
 (1)改善を中心とした、「今、ここ」のテーマか、
 (2)解が見出せず納期が迫っていてどうしようもない火急のテーマか、
をせざるを得ないということなのだろう。
社内的には(特に導入期は)技術開発戦略やパラダイムシフトという大風呂敷を広げず、まずは改善手法として売り込むのも1つの方便ではないかと考え始めている。

 しかしながら、やはり「個々の問題としてでなく、戦略的に、一般論的な問題として考えなければならない」のであって、上記のようなテーマであっても、できるだけその中に技術を見出し、技術を蓄積できるようにアプローチする努力が必要である。つまり評価の仕方や、解そのものを違うテーマに展開できるものとしたい。
また、上記のようなテーマと平行して、新規設計のテーマを織り交ぜていけば、かなり上流のところで前始末ができるし、従来機種があれば、改善効果も見えやすい。

以上推進の現場にいて切に感じることである。

オンライン品質工学の難しさ

 オンライン品質工学の難しさは、理屈だけでなく、全体組織の品質方針として顧客の損失まで含めた損失関数の考え方を受け入れられるか、という経営判断の問題ある。

 一定の規模の実験やCAEを伴うパラメータ設計に比べて、オンライン品質工学は手軽であるという印象があった。
必要な数値さえ得ることができれば、あとは計算公式に則 って、最適な工程チェック間隔や修正限界許容差などを算出することができ、その結果に従って工程の管理を行えば、結果としてトータルの品質コストが下がる、という 仕組みだからだ。
ある意味では初期のアイデアが必要ない分、また下流の製造部門で 行える分、ハードルは低いように思えた。
実際、計算に必要な数値は調査を行うことで短時間で得ることが出来たし、計算を行 い、改善品質コストも満足のいく数値となった。しかし、実際にはこれが工程管理に 適用できないのである。

 最も大きいハードルは「最適工程管理条件と、経験的によいと感じる条件のギャップ」であると言える。
いろんなケースがあるだろうが、一般にはオンライン品質工学を適用すると、従来の管理は目先のチェックコスト、修正コストを抑えるために間隔は長くや許容差は甘くなっている(工程内の許容差に入っているのでOK/NGという意味では問題は起こらない)。
この場合、目標値mからのずれによる損失関数から導かれる品質コストが大きくなり、改善の余地が生まれるのである。
最適化した条件は、将来(市場)の品質によるロスコストの低減を先取りして、目先の管理コストのアップを受け入れるべきだ、との判断を迫る。
損失関数をちゃんと説明すれば頭では納得してくれる。しかし、現場の判断ではそうならない。
これは現場の判断を責めても仕方がない話で、要は会社(事業部)として、設計~製造~市場(品証)のトータルコストを最小にするという意思表明とトップダウンのマネジメントがないとできない相談であり、現場の判断では、自部門責任のコストを最小にするという行動は、組織論としては合理的である。

 さて、実践論として品質工学を展開している筆者としては、まず最適とはいかないまでも、いくらかは改善できるという折衷案を提示することを提案する。
例えば、従来 100ロットごとのチェック(=ほぼ修正間隔と同じ周期)が、最適では20ロットだとする。
5倍の頻度での工程チェックは現場としては受け入れられないので、次の3回のチェックを「理由をつけて」導入することを提案した。
 (1)10ロット目:工程修正に よる異常がないかのチェック
 (2)40ロット目:特性の線形トレンドが維持されている かの中間チェック
 (3)80ロット目:修正限界直前のチェック
他にも方法があるが、 なんとか品質工学の理想論を現場へ実装するための苦肉の策である。
実際、最適で20 ロット(頻度5倍)ごとを頻度3倍にしても、品質コストの改善額は10%も変わらなかった。
1事例としての紹介である。


株式会社ジェダイト(JADEITE:JApan Data Engineering InstituTE)

2006/01/30

Kazz先生の掲示板に宣伝しちゃいました。

懇意にしていただいているKazz先生の掲示板
http://www2.ezbbs.net/12/kazz/
に、このblogを宣伝しちゃいました。
先生の掲示板ともどもよろしくお願いします。

戦略的な問題解決とは

品質工学の目指す技術開発は、戦略的だという。
これは以下のドラッカーの言葉を引けばその意味するところが理解できる。

「個々の問題としてでなく、戦略的に、一般論的な問題として考えなければならない」

つまり、品質問題というのはその製品や使われ方、環境などによって表層に起こる現象はさまざまである。
これを個別に解決するヒーローは、職場では重宝がられるのかもしれないが、それではいけないと言っているのである。
さまざまな品質問題の原因には共通性がある場合が多いということで、技術の場合でいえばすべて「機能性」(技術の働き)のまずさから来ているものであるということだ。
機能性が悪く、表層の品質特性のばらつきが大きいと、全数検査を行うため工数が増えたり、熟練者による調整作業が必要だったり、チャンピオンデータへの難しい調整が必要だったりする。もちろんこれは工程内だけにとどまらず、工程内の許容差に入ったと思って出荷したものが、市場環境ストレスで不具合となり、大きな損失を発生させる。

ドラッカーの指摘はまっとうだが、田口博士はそれを技術開発の分野で考えて、基本機能やSN比という具体的方法で解決策を提言している。我々がパラメータ設計を通り一遍トレースするのはそれほど難しいことではないかもしれないが、最初にこのような田口の評価システムを思いつくというのは、並大抵のことではない。パラメータ設計が一設計手法のように誤解されていることが残念である。

2006/01/28

思い込みからの脱却

情報は集めるものではなく選別するものである。
この情報化時代には、すでにいかにも古臭い文句に聞こえるが、これを自戒するのは相当難しい。
要は、「思い込み」というのが、やみくもに情報を集めている者にとっては厄介なのである。
(もちろんここで言う「やみくもに情報を集めている者」とは一因子実験や因果関係の追及を無計画に行っている者のことである)。
いや、自分には思い込みなどない、客観的事実に基づいて判断している、という技術者、研究者もいるだろう。では、以下を自問自答してほしい。

1)自分の認識や予測を裏付ける結果に注意がいく。
2)その使い方が普通だと思い込む。
3)最初に観察したもの、あるいは最新のものをより信頼する。
4)たまたま知っている人(権威)の意見を重視する。
5)大きな問題にはそれなりに大きな原因があるはずだと考える。
(出展「ソフトウェアテスト293の鉄則(Cem Kaner他)」より抜粋)

「思い込み」は誰にでもある。大切なことは、まず思い込みについて学び、気づくことである。
あとは訓練次第ということであるが、こと技術開発に関しては、品質工学における実験結果は、技術者本人の能力や浅はかさを突きつけるよい教師になるのではないか。強制的で均質な直交表による実験の組み合わせや、定量化されたものさし、結果としてのばらつきであるノイズ・・・随所にそのヒントが隠されている。

当て物の技術開発

開発や設計というのは、規格値に入ったか入らなかったという当て物ではなく、限られたリソースと能力の中でいかに良い技術(この指標については品質工学を知っている読者なら説明は必要ないだろう)を見出すかという「技」である。
下流の工程や市場という、およそ予測不可能なものを対象として、制御因子の水準の組み合わせによりいかにノイズからの影響を抑え、機能の働きを良くするかという「操作」の技である。
いかにも自分は崇高な技術をやっているという者でも、その実はほとんど当て物に近いようなことをやっている輩もいる。いろいろ時間をかけて因果関係を調べたりしてやっているが、これは結局「当て方」を研究しているのである。品質工学は当て方ではなく「やり方」を研究することによって、限られたリソースと能力の中でいかに良い技術を見出そうとしているのである。
新しい技術開発を行うときに、前回の技術開発の「やり方」を反省して、次に生かしているというような人はどれくらいいるだろうか(固有技術の蓄積の話ではない)。そういうことに気がつかないひとがあまりに多すぎる。
これは「できない」というより「知らない」と言ったほうがよいのかもしれない。

技術屋仕事の秘伝?

技術屋個人の仕事に秘伝があるとすれば、それは自分の環境と能力の限界を知ることである。
品質工学をやるにしても、これから起こりうるいろいろな不測事態の多くを頭に描き、それらの対処方法を決めておくべきである。
ところが、昨日今日品質工学を始めたような人が、その道の人なら常識というようなことも調べず、その技術(製品)の使われ方も知らずに、本に載っている通り一遍のやりかたを鵜呑みにして、いきなり実物製品や量産ラインを使った大規模な直交実験をやったりする。その勇敢さ(?)は驚くべきことで、とうてい私の考えの及ぶところではない。
何か結果を予測して実験するというのは一種の「技」であり、世の中の「芸事」と同じなのではないだろうか。結局は地味な勉強と実践での経験の積み重ねなのである。
自分が本当に身に着けたと言える品質工学技法(なにも哲学でなくてよい)だけを控えめに活用しながら成果を出していくのが、技術屋仕事というものではないだろうか。
技術者として「志」は必要だが、昨日までできなかったことが、何か真似事ですべて解決するという僥倖を夢見るのは禁物である。

2006/01/26

企業の本当の価値と時価(株価)

品質工学では「社会的損失の総和の最小化」を目指している。
今回は、ホリエモンの事件についてこれを考えてみる。

マスコミは一時代を賑わせた人物の凋落をゴシップ的に騒ぎたてているだけのように見える。
一企業の金儲け主義の是非などは価値観の問題でどうでもいいことだ。
極論すれば、今回の事件では、QE的にはなにも社会的損失は与えていない。
ただ、高く買った人/売った人、安く買った人/売った人、手数料を払った人/受け取った人・・・がいるだけである。
知らざるものが損をするという市場経済主義のありのままの姿だけだ。
金融経済では社会の生産性はプラスマイナスゼロなのである。
(泥棒も社会的損失はゼロ、というジョークまである)。

実際に株式投資をやっている当事者なら当然分かっていることだと思うのだが、株価(時価相場)は実際の価値を表しているわけではなく、単なる投資家の「期待」にすぎない。
株価は「期待」は目に見えないものを相手にしている。
株価が半分になったからといって、その会社としての実際の戦力やリソースがすぐ半分になるわけではない(株価は信用力だから長期的な影響はある)。
「実際の価値」と「時価」との落差(歪み)はあって当然のもので、そのこと自体は問題視される類のものではない。
プロのトレーダならむしろ、時価の歪みは投資のチャンスになるものだ(アービトラージなどの手法がそれだ)。
今回のような事件で、粉飾決算をした会社(まだライブドアの有罪が確定していないので一般論とする)が人為的に「価値」と株の「時価相場」との落差を作ろうとしたのがルール違反なのは当然としても、日本の市場や株式、会計システムが透明性とか、公正さの部分でまだまだ未成熟で、ここまで野放しにしてきたことこそ問題だったということだ。
これが「実際に見えないもの=コト」の本質なのだと思う。

今回の事件による真の損失は何か。それは株式などの市場に与えたインパクトが最大の損失なのだろう。時価が下がったからではなく、こんな状況では投資家が逃げてしまいかねない。日本の景気回復ももう少しかかることだろう(景気は設備投資や個人消費などの「期待」なのだ」から)。

田口玄一博士は和製ドラッカー

品質工学を学べば学ぶほど、またP.F.ドラッカーを読めば読むほど、田口博士の言っていることは、ドラッカーのそれに通じるものがある。田口博士がドラッカーの亜流というのではない。ドラッカーはいわゆる経営、マネージメントの世界に新しい哲学を提言したが、田口博士はその枠組を踏襲しながらも、技術開発やMOTという分野で「具体的な解決策」とともにそれを提示したところにその凄さがある。
ドラッカーの「今日の問題の解決のためにヒーローが活躍するのではなく、真に劇的なことは明日への決定がなされることである」との一言は、まさにタグチフィロソフィーの品質に対する前始末の考え方と一致する。ドラッカーとタグチの言葉にはその意味するところに共通点が多く興味深い。今後このBlogでも紹介していきたいと思う。