第2回:成功体験という名の脆弱性――「思考のクセ」の正体
仕事に習熟すると、判断や行動のスピードが上がる。似たような問題に直面したとき、一から考え直さなくても、過去の経験をもとに素早く答えを出せるようになるからだ。
このとき私たちの頭の中には、「この状況では、この方法を使えばよい」という思考と行動のパターンが形成されている。本稿では、それを「思考のクセ」と呼ぶことにする。
思考のクセは、本来、悪いものではない。むしろ、限られた時間の中で効率的に仕事を進め、安定した成果を出すために欠かせない仕組みである。経験を積んだ技術者、営業担当者、管理職などが、状況を見ただけで問題の所在や対処法を直感的に把握できるのも、数多くの経験が思考のパターンとして定着しているからだ。
しかし、ここに大きな落とし穴がある。
思考のクセが有効なのは、過去と現在の条件が大きく変わっていない場合に限られる。市場環境、技術、顧客の価値観、競争相手などが変化し、いわば「競技のルール」そのものが変わったとき、以前は強みだったパターンが、かえって新しい環境への適応を妨げることがある。
為末大氏が示したスポーツの比喩は、この「熟練のジレンマ」を分かりやすく表している。
体操競技では、美しい演技を実現するために、つま先をまっすぐ伸ばす動作を繰り返し練習する。長い訓練を経て、その動作は、いちいち意識しなくても自然にできるレベルまで身体に刻み込まれる。これは、競技者が一つの完成形に到達したことを意味する。
ところが、その選手がハードル競技へ転向すると、話は変わる。体操で身につけた「つま先を伸ばす」という美しい動作が、ハードルでは障害物に足を接触させる原因になり得るからだ。新しい競技では、つま先を上げてハードルを越える必要がある。体操では正解だった動作が、ハードルでは上達を妨げる要因に変わってしまうのである。
頭では「動きを変えればよい」と理解できても、身体に染みついた動作を修正することは簡単ではない。正しい動きを身につける前に、まず無意識に出てしまう以前の動きを抑えなければならないからだ。一度完成したフォームを、あえて不完全な状態まで崩し、別の競技に適した形へ組み直す必要がある。
ビジネスにおけるアンラーンも、これとよく似ている。
例えば、優れた営業担当者が管理職になったとき、自分が成果を上げてきた営業方法を部下にも細かく指示することがある。しかし、顧客層や商材、部下の特性が異なれば、本人の成功パターンがそのまま通用するとは限らない。自分で動いて成果を出す能力が、部下の判断を奪い、組織の成長を妨げる可能性さえある。
技術開発の現場でも同様である。過去の製品で有効だった設計基準や評価方法が、新しい材料や使用環境にも適しているとは限らない。それにもかかわらず、「これまで問題がなかった」「当社では以前からこの方法でやっている」という理由だけで前例を踏襲すれば、見えないリスクを抱え込むことになる。
では、なぜ人は「いつものやり方」から離れられないのだろうか。
その理由の一つは、人間の脳が、できるだけエネルギーを使わずに判断しようとする性質を持っていることにある。毎回すべての情報を検討し、一から考えていては、時間も労力もかかる。そこで脳は、過去にうまくいったパターンを呼び出し、それを現在の状況にも当てはめようとする。
この仕組みは、平常時には非常に効率的である。しかし、環境が変化しているにもかかわらず過去のパターンを使い続けると、「考えて判断しているつもりで、実際には前例を再生しているだけ」という状態に陥る。
しかも、成功体験には「以前これでうまくいった」という実績がある。そのため、本人にとっては合理的な判断に見えやすく、周囲から疑問を示されても受け入れにくい。慣れた方法を続けることで得られる安心感は、状況が変化した事実から目をそらす「かりそめの安心感」になってしまう。
一度も成功したことのない方法より、何度も成功した方法のほうが手放しにくい。つまり、経験が豊富で専門性の高い人ほど、アンラーンが難しくなる場合がある。過去の成功が大きいほど、それを支えてきた考え方は、本人の自信や職業上のアイデンティティーと強く結びついているからである。
重要なのは、成功体験そのものを否定することではない。「その成功は、どのような条件のもとで成立していたのか」「その条件は、現在も変わっていないのか」を見極めることである。
ある場面での最適解は、別の場面でも最適解であるとは限らない。強みとは、どのような状況でも通用する万能の能力ではなく、一定の条件のもとで有効に働く特性である。条件が変われば、強みが弱みに転じることもある。
この「強みと弱みの表裏一体性」を理解することが、アンラーンの出発点になる。人生100年時代をしなやかに生き抜くために必要なのは、完成した自分を守り続けることではない。環境の変化に応じて、完成形をいったん緩め、別の形へ組み直せる柔軟性である。
次回は、こうした無意識の「思考のクセ」に気づき、それを解きほぐしていくための具体的な技術へと視点を移していく。
※参考文献:Unlearn(アンラーン) 人生100年時代の新しい「学び」_柳川 範之_為末 大_日経BP
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