2006/08/23

安全率の幻想

最近、哲学がかった話題が多かったので、現実的な技術論に話を戻す。

 現在、新接合技術(溶接の一種と考えていただいてよい)をQEで開発中なのであるが、この接合強度のスペックに対する考え方について、改めて知ったことがあったので、それを述べたい。
(下名が全く知らなかっただけで、当たり前の話であればご容赦願いたい)

 話を単純にするため、仮に接合強度の開発スペックが、所定のノイズや使用条件など諸条件下で100N以上必要であったとしよう。ここで、開発した条件での平均強度が220Nであり、市場で良品と認定できるばらつき範囲が±20Nであったとしよう(すなわち、ノイズ条件下でたとえば99.99%が200N~240Nの範囲に入る)。この場合の設計マージンはいくらであろうか。
 この話を機械技術者と行ったとき「安全率」という言葉を双方が使っており、当方はてっきり、平均値(220N)から20Nばらついており、100Nまで許容されるのだから、安全率は6倍だと思ったのである。つまり、望目特性の考え方である。この考えに何の疑問も持っていなかったのである。
 ところが、機械技術者(世の中)の常識では、スペックが100Nで、ばらつきの下限が200N(=220-20)であれば、安全率は2倍だという。つまり0Nを原点とした望大特性の考え方である。
 この考え方に基づけば、どんなにばらつきが少なくても、物理量が原点より離れていれば安全率は限りなく小さくなってしまう。たとえば、スペックが1000Nで、平均値が1120N、ばらつきが±20Nの場合、当方の考え方では同じ安全率6倍(SN比で考えれば、平均値が220Nの時より25倍くらいSN比が良くなっているにもかかわらず)となるが、機械技術者の考え方では1.1倍になってしまい、悪い判断となってしまう。

 このような指標でマネージメントされる限り、ロバストネスという考え方はなかなか根付かないだろう。なにしろ、物理量の原点によって評価結果のよしあし(ひいては技術者の能力)を判断されしまいかねないのだから。

 静特性は望大特性より望目特性で評価せよ、と言われて久しいが、世の中の常識は未だかくのごとしなのである。

注釈
品質工学では安全率すなわち工程内規格は損失関数によって定められることを承知している。上記は、現在のパラダイムのなかで議論したなかでの出来事であることをご承知願いたい。

2006/08/20

「分かっちゃいるけど」の壁を超えられるか

以前ここで取り上げたDr.コヴィーの「7つの習慣」であるが、思うようにページが進まない(この間10冊以上のほかの本を読んでいるにもかかわらずである)。最後まで読まずに勝手なことはいえないが、おそらくここに書かれている成功の原則のようなものは、一面では経験主義的な真理を突いているのであろう(ただし、米国化された近代資本主義社会の枠組みの中で、であるが)。
 ところがなんとも退屈なのは一言で言うと「書いてあることは正しい」のだが、「それを得心して自分のものとして運用していく」という観点では書かれていないように思われる点である。すなわちDr.コヴィーは原則を示しているのであり、それをどう自分の問題として捉えて、パラダイムシフトを起こしていくのかはあなた次第、というところがある(もちろん、そのことでこの著書の価値が落ちるとは思わない)。  「分かっちゃいるけど」できないことは我々凡人には多すぎるのである。

 この点で、品質工学の原則論は技術論のパラダイムシフトであることは疑いの余地がないが、それを実践、推進していくのは難しいという意味で似たようなところがあると感じる。つまり、自分の外側にある事象や法則、戦略論のパラダイムシフトなのであって、それを運用する人の考え方そのものを揺るがすようなパラダイムシフトを与えるに至っていないのである。もちろん、外側のパラダイムを理性で解釈でき、また豊かな感受性で感化されて、内側の自分をモーチベートして品質工学を続けている方はたくさんいらっしゃるのであるが、それでもつまりは「あなた次第」なのである。

 そこでさらに一歩進むために、1つのヒントを与えてくれそうな本を紹介する。最近読んだ本で、人生や生きがいに関するパラダイムシフトを引き起こしてくれた本がある。「生きがいの創造」(とその一連のシリーズ:飯田史彦著)である。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569573142/sr=1-1/qid=1155430985/ref=sr_1_1/503-9999759-3811105?ie=UTF8&s=books

 この本はおそらく、科学技術にどっぷり漬かった唯物論者は目次を見ただけで拒絶反応ものだろう(下名もその一人であるが、なぜこの本を読むことになったかは「出会い」と言うしか表現が思いつかない)。本書では、意識体(いわゆる「魂」)や中間生(いわゆる「あの世」)などの、意思や大学教授らによる実証論的な科学研究成果を検証しながら、人間の存在理由や人生の意味を1つの仮説から紐解いてゆく。本書の筆者は経営学者(大学教授)であり、本書で扱うのは最終的には「生きがい」論である。  本書の仮説を1つの考え方として受け入れてしまえば(またそう考えることに全くリスクがないことも親切に解説されている)、人生は非常に力強く、また精神的に安定なものになるだろう。なぜそう感じられるのかは本書をあたっていただきたい。無神論者でも、また「人生論など他人に説得されたくない」と思う方でも読んで損はない1冊である。

 さて話をもとに戻すと、上記「7つの習慣」のような「原則は正しいのだろうが、分かっちゃいるけどできない」に対して、その人の内面の考え方やスタンスに対してパラダイムシフトを起こしてくれる可能性があるものの1つのが飯田氏の書の考え方である。

 品質工学の原則論はおそらく正しい(下名に真理など知るゆえもないので、あくまで他の考え方との相対比較でしかないが)。しかし「社会の自由の総和の拡大」というところまで得心して、それを技術者の生き方として実践していくためには、少なくとも下名のような凡人にはなんらかの人の魂をゆさぶるような経験(それが1冊の本なのか、人との出合いなのか、研究の成功体験なのか、臨死体験なのか・・・はさまざまであろう)が必要なのであろう。

  かく言う下名もまたその探し物の途中である。

2006/08/15

ミスティックな研究指導者

  新しいことを啓蒙推進していく者の姿とはどのようなものなのであろうか。

 「孫子に学ぶ研究開発の兵法」(佐野健二著:東芝) http://www.amazon.co.jp/gp/product/4893469509/ref=sr_11_1/503-9999759-3811105?ie=UTF8
の一説に以下のような記述があるので紹介しておく。

「人間が非常に大きな力を発揮するのは使命感を持ったときであり、崇高な理念に支配されたときであろう。したがって研究指導者は一種の宗教家に近い能力を発揮しなければならない。すなわち研究の動機付けや研究の意義の解説に通常の管理職以上の能力が要求される。」

 「胆識」とはこのような能力のことを言うのであろう。

 しかしえてしてこのような方が必ずしも政府や企業で要職についているとは限らないのが世の実態でもある。