2007/02/18

村上陽一郎「近代科学を超えて」とQE誕生予言?

村上陽一郎「近代科学を超えて」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/近代科学を超えて-村上-陽一郎/dp/4061587641/sr=8-1/qid=1171799999/ref=pd_bbs_sr_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
「トーマス・クーンのパラダイム論の成果の上に立って、(中略)科学の進むべき新しい道を開いた」とある(裏表紙紹介より)。1986初版の文庫版であるが、原文はすでに1974年にあったらしい。30年以上前の書ということになるが、今読んでも全く古さを感じないし、むしろ今だからこそ読む価値が再認識される科学論書である。

 本BlogはQEのものであるので、興味を引いた部分を引用して簡単にQEとの関係について何がしかのコメントを加えてみる。(『 』は本文からの引用)

 『要は「人類のために」という科学の目的を、全体的現象の把握のなかに生かすための方法論を知ることなのであって、・・・(中略)・・・科学的であることと、分析的であることを等置と考えるドグマから脱却し、科学に対して、より柔軟な論理構造の枠組みを許すことにある。』(p.116)

 QEでは最初から社会的損失の最小化、人類の自由の総和の拡大を言っており、そのための方法論を具体的に提示している。執筆当時、著者は上記を打破できるのは、さしあたって「システム論」であるが、成果はまだこれからだ、としている。

 『システムの方法論を、上位概念もしくは上位法則によって下位概念を説明する、と定義してみてはどうだろうか。(中略)あるいは、あえて言えば総合的思考(分析的思考に対する対語※下名注)に当たると思われる。そうした思考を取るとすれば、当然、目的論的説明、機能的説明が、その思考過程のなかであるところを得るはずである。』(p.130)

 前後の文脈がないと多少分かりにくいかもしれないが、「目的論的説明、機能的説明」とあるように、分析論的な思考の対立軸として、目的的に、機能的に対象を説明するということである。QEの目的機能の定義および、その機能を達成するための帰納的思考方法がまさにそれに当たっており、従来の科学的思考(なぜそうなるのか、どう振舞っているのかをより下位の概念の分析で説明しようとする)に変わる軸を、Dr.タグチと同時期(30数年前といえばそのころであろう)に見据えており興味深い。

 『われわれは、医学がもう一度「生きる」ことの間に受ける「苦しみ」の除去という根本的前提に立ち戻ることを求めるのが、(中略)高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析にとどまらず、(中略)一個の人間の「苦しみ」をより大きなシステムとしての社会、民族、人類という観点から把握する方法論を確立することを望むものである』(p.131)

 高分子的、細胞的なレヴェルでの異常、正常の分析を「下位概念の分析での説明」だとすれば、一方では新しい枠組みとして(著者がシステム論的という)人類レベルでの損失の減少や自由の拡大を念頭において、ということであろう。なにも医学に限った話ではなく、あらゆる製品は原理やノイズの科学的分析だけでなく、機能や目的、とりわけ品質の定義である「出荷後、製品が社会に与える損失」を考える必要があると考えれば、根は同じであると思えてならない。QEではこの考え方に基づいてコストを工学に取り込んだところが、パラダイムシフトなのだといってよいだろう。

 これに対して、予測される反論に対しても著者は用意周到に以下のように述べている。

『そうした方法は、分析的方法に比較して、正確さにおいて欠けることは、当然予測されるところである。しかし、現象はときにむしろ曖昧なものである。(中略)曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法は、科学のなかで決して否定されるべきものではない。(中略)われわれの科学のなかでも一種お袋小路に追い詰められていることはたしかであって、それを建設的に切り拓いて行く為の提案は、否定されるべきではないだろう。』(p.131-132)

 「曖昧さを曖昧さとして正当に評価できる方法」・・・これがSN比でなくていったい何であろうか。多次元空間のわけの分からない振る舞いを、(多少の情報損失は覚悟の上で)目的的に、すなわち理想機能の充足の程度として定量評価できるほぼ唯一といってよい尺度である。(ついでに言えば、その尺度があるだけでもありがたいが、評価尺度の加法性にまで気を配り、加法性を成立させるためのデータの取り方まで具体的に言及している学問は、QEは唯一無二である)
 また、前記後半の文章は、「数学的に証明できないSN比など信用できない」などの心無い批判を受けているQE推進者諸氏には心強いメッセージであろう。分かる人には分かるのである。

 最終節の「新しいパラダイムを求めて」のくだりは文字通り、圧巻である。ぜひ本書を手にとって前文をごらん頂きたい。一部だけであるが以下紹介する。

『近代科学の表看板では(中略)、三つ以上の要素の間のそれ(因果的関係※下名注)を同時に取り扱う手段を持たない(中略)・・・「共時的、同時的」な秩序に注目すべきである。(中略)われわれはそうした種類の秩序を正確に表現できるような数学的な道具をまだ手にいれていない。』(p.213)

 著者はこのような「共時的、同時的」な形態として、図形や和音などを例示しており、その形態のことを「パターン(独語ではゲシュタルトに対応)」と言っている。このような同時に起こるような自称の総合評価の数学的道具が必要であるが、今は(1974年当時)ないと言っているのである。このBlogの読者ならピンとくるであろうが、これに対する解はMT法が多くの部分を提示しつつあるのではないだろうか。

 『地球規模での自然制御の対象は、(中略)国家、民族、文化圏などの一切を包含した文字通り相対としての「自然」である。ここに要求される「文化」こそ、ある意味で自然をも包み込み「文化」-これまでの「文化」が「自然」内的存在であったのに反して-言い換えれば「超文化」とでも言うべきものであろう。(中略)政治・思想・倫理など人間に関するあらゆる側面を、一つの普遍的合意へと導いていくような種類のものでなければならない。そのような「技術」を手に入れることは・・・(後略)』 (p.222-223)

 本書の結論的な部分で、超文化へ導くものは、思想や倫理を普遍的合意に導くような種類の「技術」である、という言葉を使っている。2007年現在でのつたない下名の後知恵にすぎないが、この言葉が当時におけるQEの誕生予言に聞こえてならないのである。

 同筆者の「新しい科学論」(ブルーバックス)
http://www.amazon.co.jp/新しい科学論―事実は理論をたおせるか-村上-陽一郎/dp/406117973X/sr=1-1/qid=1171800062/ref=sr_1_1/249-0825545-2324336?ie=UTF8&s=books
も合わせて読んでいただければ、科学史や科学論に興味をもっていただけるものと思い、ご紹介したしだいである。

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