2011/10/09

「東日本大震災と品質工学の役割」を聴講して+【今日の言葉100】

 先日の関西地区品質工学シンポジウムで、アルプス電気の谷本技術顧問より「東日本大震災と品質工学の役割」と題して講演があった。結論は出ていないが一部感想を示したい。

 講演のなかで「1000年に一度の災害にいくらコストをかけるのか」という問題提起が行われた。対策を品質工学的に言えば損失関数と安全設計コストの話になるのであるが、下名が思ったことの1つは対策の話ではなく、今後「総損失が最小になるような対策を」ということが、世の中的にますます通じにくくなるのではないか、という懸念である。

 谷本氏の指摘の前にも、田口玄一博士は「100年に一度の災害のために過剰な構造物を作るのは経済的でない」という趣旨のことを述べていた(出展調査中)。しかし、今回は1000年に一度が起こってしまったのである。これでは、いよいよ「万全の対策」「100%の安全を」というスローガンが叫ばれ、損失燗素敵な総コスト最小の考え方が等閑されるおそれがまずます高まった。「人命のコストは○億円」という言い方も、世論(=sentiment、≠輿論)は許さない風潮になる。これをどうしたものか。「仕分け人」の見識と、世論の理解が試されるところである。

 2つ目の感想に関することは、「今回も技術は災害を防ぎきれなかった」、「科学・技術への信頼が揺らいでいる」・・・という主旨の論を耳にするにつけ、日本人の世論にさまざまな自覚が足りないのではないかということだ。もともと人が行うことに完全はないのだということに対する無自覚、技術のおかげで実は今回の被害はかなり小さかったのかもしれない(Ex.走行中の新幹線での事故はなかった等)という可能性への無自覚、そもそも原発に限らず科学や技術の成果は社会の選択を経て世の中に出てきているということへの無自覚・・・などである。

 日本人の精神が本当の意味で近代化していない、というのは言い古されていることかもしれないが、自治体や政府の非をとがめるのも、事故が起こってからこの技術はまずいと非難するのもあまりに容易で、カタルシスにはなっても前には進めない。

 品質工学を含めて現在の技術では今回の地震も予測できなかったし、有効な未然防止もできなかった。その事実を謙虚に受け止め、企業、学会、市民、そして個人として、具体的に何ができるかを考えなければならない。エネルギーシステムや社会システムを提供する企業の一員として、そのようなことを漠と考えた次第である。

 しかしマリナーズのイチローいわく、
「あこがれを持ちすぎて、自分の可能性をつぶしてしまう人はたくさんいます。自分の持っている能力を活かすことができれば、可能性が広がると思います。」

 凡人は背伸びはしすぎないように、1つ1つ積み重ねれば、いつかは程遠い理想に少しでも近づくと信じるようにしたい。

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